
1950年代から1970年代、日本各地で視力低下・全身のしびれや痛みといった症状を訴える人々が続出し、症状の頭文字を取ってスモン(SMON:Subacute Myelo-Optico-Neuropathy、亜急性脊髄視神経症)と名付けられました。当初、この症状の原因は特定されておらず、「伝染病」であると疑われ、被害者は偏見と差別に苦しみました。
その後の研究により、症状の原因が当時の整腸剤に含まれていたキノホルムという物質であると特定されました。被害者は、整腸剤を販売していた製薬会社と国を訴え、謝罪と補償を勝ち取りました。
この裁判をきっかけに、医薬品の安全性について定めた法律が制定され、薬害防止の道筋が開かれました。最終的なスモン被害者は、1万人を超えると言われています。
1940 | 戦時中から各国でキノホルムを利用 |
1943 | キノホルム剤(エンテロ・ヴィオホルム)輸入開始 |
1945 | 終戦。各国はキノホルムの販売を中止、日本だけは市販を継続 |
1955 | 被害発生(1955~1970年ごろ) |
1969 | 厚生省が「スモン調査研究協議会」を組織 |
1970 | ウイルス説(京都大学井上助教授)、キノホルム説(東京大学田村教授)の出現 厚生省は中央薬事審議会でキノホルムの使用を禁止 |
1971 | 国と製薬会社を相手にした裁判の開始 |
1977 | 地裁判決(原告勝訴) |
1979 | 和解 |
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1. スモン事件の発生と原因究明
列強各国は、南方の植民地でのマラリアやアメーバ赤痢対策のため、キナという植物の成分である「キノホルム」を用いて薬を作っていました。キノホルムには神経毒性があることから、戦時中の日本では劇薬指定がされていたものの、1939年、内務省は説明なくキノホルムの劇薬指定を解除し、キノホルム製剤の国内製造を始めました。第二次世界大戦終戦後、日本は戦時中の医薬品の見直しを行いましたが、キノホルムは劇薬指定には戻されないばかりか、安全な薬として適用範囲が拡大され、市販の胃腸薬に広く添加され販売されました。
このキノホルム製剤を服用した人びとの間で、目のかすみや失明、手足の麻痺、歩行障害などが発生し、これらの症状の頭文字を取ってスモンと名付けられ、当初、原因は不明であり、スモン被害者たちは、症状の原因や治療法が分からないまま、病状の進行と差別・偏見に苦しむことになりました。
1955年ごろから被害は発生していたものの、東京オリンピックのボート競技が行われる予定の埼玉県戸田市で集団発生したため、「戸田病」と呼ばれました。旧厚生省は研究班を組織しましたが、予算が低額であり、研究は難航したまま解散しました。その後1969年に岡山県の一部地域でスモン被害者が多く発生し、町の陳情によって旧厚生省は新たな研究班を発足しました。
2. 原因が特定され、被害者たちは裁判を提起
スモン患者の排泄物は緑色でしたが、その原因物質が当時の胃腸薬に含まれていたキノホルムであることを東京大学の田村善蔵教授が証明しました(キノホルム説)。これは、1970年のことです。一方同時期に、京都大学の井上助教授は、スモンがウイルス感染によるものであるという説(ウイルス説)を提唱します。これを新聞などが大きく取り上げたこともあり、患者への差別はより強まり、自ら命を絶ってしまう患者もいました。
スモン研究が進められるなか、かつて新潟水俣病の発見にかかわった新潟大学の椿忠雄教授は、キノホルム説の疫学調査に着手しました。疫学調査から1か月後、キノホルム製剤使用とスモン発生率に相関があることが認められ、旧厚生省によりキノホルム製剤の販売が中止されました。
3. 被害者たちのつながり
原因不明の症状に苦しんでいた被害者たちは、各地でつながりをつくり、陳情活動や交流を行っていました。1969年には、全国各地のスモン被害者の会で構成された「全国スモンの会」が発足し、行政への働きかけが行われ始めました。
1969年、症状の原因が自分たちの服用していた胃腸薬であったことを認識した被害者たちは、訴訟を提起することを決めました。第一次提訴では、原告個人が、製薬企業や国、投薬をした医師や病院を相手取っていましたが、次第に全国規模の集団提訴に発展しました。方針の違いによる被害者組織の分裂・生成を経ながらも、訴訟の体制が次第に整備され、集団訴訟は全国に広がっていきました。同じ頃に社会問題化していた公害事件の反対運動と連帯しながら、被害者たちは社会に被害を訴えました。
約10年続いた裁判の結果、提訴されたすべての地裁で原告勝訴の判決がくだされ、原告たちは国や製薬会社との間で「確認書」に調印しました。和解によってスモンの原因がキノホルム製剤であること、製薬会社は原告らの損害を賠償する義務を負うことなどが認められました。判決を受け、国の方針によって和解による患者救済が進められました。
4. 薬事行政とのかかわり
同時期、国会では、「薬事法改正案」と「医薬品副作用被害救済基金法案」(いわゆる「薬事二法」)に関する議論が進められていました。いずれもスモン訴訟とかかわる法案で、「薬事法改正案」では新薬の製造承認の厳格化を、「医薬品副作用被害救済基金法」では薬害被害者への補償を製薬企業による拠出金でまかなうことが目的とされました。1979年、薬事二法が成立し、医薬品の安全性に関する国の責任や、副作用への救済の仕組みがつくられました。また、スモン患者に対しては恒久対策として、原因追及と治療法の開発、患者の健康管理などが続けられています。
参考文献
- 実川悠太編,1990,『グラフィック・ドキュメント スモン』日本評論社.